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二宮城光(Ninomiya Joko)
1954年1月27日愛媛県八幡浜市出身。血液型B型。現在は、円心会館館長として世界で空手を指導している。米国コロラド州デンバー在住である。
1969年に極真会館芦原道場(八幡浜)に入門した。高校時代柔道で海外に出ることを夢見ていた。当時警察道場で警察官に極真空手を指導していた芦原英幸により空手の才を見いだされる。当初は、柔道で相手を引く力はかなりあるのに、押す力がほとんどなく芦原から毎日腕立て伏せをやるように指導を受ける。その後も芦原の指導を受けることで着実に力を伸ばしていった。1978年の全日本空手道選手権大会で優勝をおさめた。
二宮は、1975年に行われた極真会館主催の第1回世界大会後、ニューヨークの大山茂師範のもとで修業を行い、自分よりはるか大きな相手と戦う事を学ぶ。この大山茂の元にいる間に、大山茂より空手四段を允許される。これは、アメリカに滞在するビザの関係もあり、四段位を允許する必要があったことが、のちに大山茂より明らかにされている
1978年第10回大会出場のために日本に帰国した二宮は、開口一番「自分は動きが悪くなりました」と芦原に告げた。これは、当時芦原が模索していた柔よく剛を制すサバキの動きから大きくはずれる動きであったことを意味していたと言われている。
この第10回大会では、後の極真を背負って立つことになる実力ある選手と闘うことになった。準決勝では中村誠、決勝では三瓶啓二と激闘を繰り広げた。それぞれを判定で下し、念願の日本一になった。当時日本では、どこに行っても日本一になったことで祝福されたが、アメリカに戻れば無名の日本人に過ぎなかった。のちに大山茂師範のもとを離れ、デンバーに自分の道場を構える。
1980年に師であった芦原英幸師範(当時)が、極真会館を永久除名となったことで、二宮自身も芦原と共に極真会館を離れた。その後、新国際空手道連盟芦原會館のアメリカ総責任者の任にあったが、1988年7月に芦原との仲がこじれ芦原會館を退会した。二宮から退会を聞いた芦原は、二宮が芦原會館に残留するように石本聖款(現流心館)や廣原誠(心体育道)を説得に当たらせたが、二宮の意志は固く残留さすことは出来なかった。
芦原は、二宮が芦原會館を退会するにあたりいくつかの条件をつけた。その一つが1988年から3年間は、二宮が芦原會館を退会したことを表に出さないというものだったといわれている。それは、1986年から芦原が世界進出戦略としてビデオや技術書を出版している最中だったこととによるものであった。
芦原會館を離れた二宮は、自流である円心会館をデンバーで設立し、独自の空手理論を形にすべく日夜奮闘している。その技術は、芦原英幸から学んだサバキが基本となっており、サバキチャレンジという大会を毎年デンバーで開催している。二宮の得意とする柔道などをサバキに取り入れ、従来のサバキとは、大きく変化しているのがわかる。またサバキチャレンジという大会を意識した技術も多く見られる。近年は、日本で行われる大会やイベントなどのために帰国することも多い。
二宮の師であった芦原英幸館長