Samurai Bushido Channel in Japan

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松本英樹と英武館カラテ

松本英樹は、元芦原會館の関西本部の指導員であった人物。その力量は、芦原會館でもトップクラスであった。のちに芦原會館を離れ、自流である国際空手英武館空手を設立し現在も各地で指導を続けている。松本が、芦原會館の職員となる前は、自衛官であった。松本が、芦原道場に入門するのは、たまたま自衛隊にいた先輩に連れられて見学に来たのが最初であった。松本は、自衛隊時代もその身体能力が高く自衛官としても将来有望な人物と目されていたが、芦原空手の魅力に取り憑かれ空手の道に進むことになる。松本が、関西本部に入門した頃は、まだ極真会館芦原道場関西本部であったが、間もなく関西本部の責任者であった石井和義が芦原道場を退会したことで関西本部の指導は、中山猛夫が行うようになるのである。従って松本は、入門当初中山の指導も受けたことがある。

 

当時極真会館芦原道場の責任者は、「ケンカ十段」とよばれた天才空手家芦原英幸であった。のちに極真を離れて自分の流派「芦原會館」を興すが、まだこの時は大山倍達を館長とする国際空手道連盟極真会館の人間であった。当時極真会館において芦原英幸は、四国支部長というポジションにあったが、その弟子が関西、中国地方、九州まで広い範囲において同好会や芦原道場の分支部を出すという状況であった。その広がり方は、極真会館内部でも一番の広がりを持っていた。極真会館の超であった大山倍達館長は、芦原に西日本すべてに極真会館を広めるという命令を課していたものの、芦原の勢力の拡大は想像を遥かに超えるものであった。そこで、大山は芦原に「他府県への分支部や同好会拡大を辞めるように」と芦原に通達するが、すでに西日本には芦原信者ともいうべき芦原信奉者が多く産まれつつあり、大山の通達に従って道場閉鎖できる状況ではなかった。

 

関西での極真会館芦原道場拡大の任務を背負い送り出されたのが、後にK-1などを作り空手を一つの大きなビジネスにまで高めた石井和義であった。石井は、元々四国の八幡浜の出身であったが、就職で大阪に出てきた時に芦原から「大阪で道場を作るように」という命令を受け、大阪難波に空手道場を出すのである。当初は、卓球場などで行っていたが、その後高架下に移る。そこが、後の関西本部の拠点となったのである。

 

松本が、入門してくるのは、道場が高架下に移ってからのことであるが、まだ芦原が極真会館を離れる前のことである。石井は、K-1を見てもわかるように抜群のビジネスセンスを持ち、あの大山館長ですら「極真にいないのは、あの石井くんのようなビジネスに長けた男だよ」と言わしめた。石井が芦原道場を離れた後は、実質中山猛夫が関西本部を仕切る形になるが、それも1年足らずで終わる。中山を筆頭に当時芦原會館に在籍していた多くの黒帯が大挙して退会したからだった。

 

それは、一種の内部クーデターであったと言われている。芦原會館を離れた多くの道場生は、その多くが正道館(のちの正道会館)に吸収されたとされている。そんな大変な時期に松本は、芦原會館関西本部の職員に抜擢される。松本は、その大任を果たし、強い後輩を育て関西本部を守った。また松本自身が、自分自身を追い込むことで厳しいトレーニングをしていた。新生芦原會館には、多くの腕自慢やケンカ自慢、さらにはボクサーやレスラー、総合格闘家など様々な人間が道場破りあるいは力自慢に現れたが、そのすべてを松本が撃破した。

 

そんな松本であったが、その強さゆえに芦原が病気で倒れた後、芦原會館を松本が乗っ取ろうとしているという真しやかな噂が流される。病に犯されすでに正常な判断ができる状態ではなかったとされる芦原は、松本を破門にした。自分の師から思わぬ形で破門にされた松本は、一時期空手そのものをまったく止めてしまう。

 

行き場を失った松本であったが、寝屋川の体育館で一人自主トレに励む松本の姿があった。そんな松本の噂を聞きつけた後輩が、一人また一人と松本の元に集まってきた。最初松本は、「俺はもう空手は教えないよ」と宣言していたのだが、その数は日を追って増加。そのうち松本も重い腰を上げざるを得なくなる。そうして誕生したのが、松本を慕う者たちによって始まった「英武館」という空手団体へと成長していくのである。現在松本は、英武館で若い道場生と共に汗を流している。

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松本英樹

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