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実戦!芦原カラテ(ケンカ十段のスーパーテクニック)制作秘話

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実戦!芦原カラテ

芦原英幸・最初の技術書

この本こそは、芦原英幸が精魂かたむけて作り上げた最初の技術書であった。芦原にとっては、これが生まれて初めての本作りであった。この本の制作は、どのようにして行われたか?おそらくそれを知る者は、ほとんどいないだろう。最初は、本を出すことすらも極秘にすすめられていたからだ。今では、多くの人が知るように私は一時期芦原の秘書的な仕事を任されていた。それは、さまざまな資料集めにはじまり二代目に関するある相談など多岐に渡っていた。そこには、芦原先生が亡くなった今であっても明かせない話はある。芦原は、最初に本を作る時もかなり独創的であった。

芦原英幸の本つくりとは?

芦原の最初の本作りは、前例がないものだった。A4サイズのパラフィン紙に写真を張り付けたものがあり、そこに技術的な解説が手書きで書きこまれていた。実は、のちに私が書き上げた「芦原英幸サバキの真髄」も実は、芦原のこの手法をまねて作成されているのだ。わかりやすくいうと、芦原は技術書を最初写真以外はすべて手書きで作ったと

いうことなのだ。技術書が、通常の本とは異なり変形の本になったのは理由があった。それは、芦原が考えた技術書を表現するのは、通常の判型では表現しにくいという理由があったことによる。さらにこの本には、編集プロダクションがかかわっており、彼らは当時「エバンゲリオン」の書籍を作ってヒット作を世に出していたことから芦原の本を出すには、今までにない本を作ろうという意気込みが大きかったのである。

裏切られた芦原英幸

この話は、すでに私が過去に書いた「最強格闘技図鑑」(ぶんか社)でも書いた話であるが、芦原の技術書は最初「角川書店」で出版される予定であった。なぜそうなったかというと、当時芦原会館にKという角川書店に勤める敏腕編集者がいたという理由があったからである。当然芦原は、Kが角川書店に勤めていることは知っていた。それである日Kに「角川書店から技術書を出せないかな?」と尋ねたのだ。Kは、自分の師匠の本だから生半可なことはできないと考え、直接社長、つまり角川春樹社長(当時)に話をもっていったのである。しかし、Kはここで大きなミスを犯す。Kにしてみれば、角川が芦原のことを知っていると思っていたのであるが、角川春樹は芦原英幸のことなどまったく知らなかったのである。まぁ、これは当たり前といえば当たり前の反応と言えた。我々、武道や格闘技の世界にいる者にとっては、芦原英幸という名前は一つの金字塔である。しかし、一般社会ではまだまだ認知はされていなかった。芦原英幸?それって誰なの?という世界だった。そしてこのことが、大きな事件となる。

芦原英幸VS角川春樹

その日芦原英幸は、弟子のKとともに角川書店の本社社長室にいた。秘書が、お茶を運んで来て、しばらくするとバーンと社長室の扉が開いて角川春樹が入ってきた。角川の態度は横柄な態度だった。名刺交換をしてソファに腰を下ろした芦原とKだった。角川は、手で芦原の名刺をじっと眺めるとその名刺をテーブルの上に掘り投げるようにして置いた。芦原は、その態度を見てカツンときていた。しかし、極力顔には出さないように気をつけた。「芦原さん、空手の世界では有名なんですってね。Kから聞いていますよ」と言った。差しさわりのない世間話から話が核心に迫った時。角川は、言った。「芦原さんは、空手の本を出したいんですよね。うちでは、そういったジャンルの本は今まで経験がないんですよ。それに空手とかそういった本は、売れないんですよ。」そんな風に言った。芦原は、怒鳴り出すことはなかったものの、かなり頭に来ていた。後に芦原自身が語ったところでは、「あんたが出してほしっていうなら、出してあげてもいいよ」という態度だったという。角川書店の本社ビルから出ると芦原は言った。

「芦原は、死んでも角川書店から技術書は出さんけんな!」

 

芦原英幸伝説再び!

角川書店から技術書を出すという話が、つぶれたことで当時の芦原は、多少意気消沈していた。弟子の前では、「芦原は、大山館長より多くの弟子がおるけん。別に技術書なんかなくてもええんよ」と明らかに強がりと言えるセリフをはいていた。実は、多くの人には知られていないが、芦原の技術書は、もっと早くに出る可能性があったのだ。実は、芦原の最初の自伝「流浪空手」が出版されたあとに、同じスポーツライフ社から技術書がでる話はあったのだ。しかし、この時はまだ芦原自身のちのサバキと呼ばれるようになる技術体系を構築する途中であったこともあり、技術書の出版を断っているのである。当時出版社の社長は、芦原の技術書を出版する予定で動いていたのであるが、それが没になり困ったのだ。そして、そのかわりに出版されることになるのが、芦原の弟子であった石井和義の「実戦!正道カラテ」なのである。出版社にしてみれば出版予定の本が没になり、そこに出てきた石井和義の技術書の話は、まさに渡りに船という事だったのかもしれないが、これは再び芦原を激怒させることになった。なぜなら石井は、芦原の弟子であり、彼が教える技術内容は芦原の指導していた内容に他ならなかったからである。

 

技術書の内容変更

石井が書いた最初に書いた技術書が、「実戦!正道カラテ」(スポーツライフ社刊)であった。

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実戦!正道カラテ 1983年

この黒い表紙の本が、石井和義の最初の技術書である。この技術書の発売が1983年の5月20日。それよりも少し前の5月5日に出版された本に石井のサバキの技術がすでに掲載されるのである。その本こそが、「闘いの中で」(スポーツライフ社刊)という本なのである。実は、この本は最近では非常に貴重な本でなかなか古書でも出てこない本なのだが、形意拳で有名な利根川謙氏についてはじめて書かれた記事が掲載されている貴重な本でもあるのだ。

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闘いの中で 1983/5/5発売

この中にはじめて石井和義のサバキ技術が掲載された。そういう意味では、正道カラテの技術書が出る前の広告的な感じで掲載されたともいえる。そのわずか約2週間後には石井の最初の技術である「実戦!正道カラテ」が発売されるのだが、売れたのはわずかに500冊ほどであった。それは、まだ正道館(のちの正道会館)が、まだそれほどメジャーではなかったためであろう。この最初の黒っぽい表紙では、ハイキックを行っているのが、中山猛夫。その蹴りを受けているのが伊藤浩久である。芦原は、この技術書を見るやいなや「石井は、芦原の技を盗んだ!」と激怒した。同じような内容で出せば「芦原は、石井のマネをしたと言われるけんな」と芦原は、当時弟子たちに語っていた。石井の技術書は、のちに新しい表紙に変更される。それが次にあげた写真である。

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表紙が変えられた技術書

こちらの新しくなった表紙では、右側にいるのが石井和義、左側が中山猛夫である。この表紙にかえたほうが、売れ行きは良かったという。表紙は変わったが、その中身は以前に出たものと同じ内容である。(詳しい内容については、実戦!正道カラテの技術書解説のページで説明する)

「実戦!芦原カラテ」の誕生!

実は、石井の技術書「実戦!正道カラテ」が出版される1ケ月ほど前に芦原の技術書「実戦!芦原カラテ」は出るのだが、予定ではもっと早くでる予定だったと言われている。それが、遅れたのは石井の本が出るとの情報から石井の出す本の内容に似ないようにするために内容を大きく変えたからだと言われている。芦原の本は、講談社の少年マガジン特別編集という形で出ることになる。すでに角川書店から技術書を出すことを断念した芦原だったが、そんな芦原に出版の話をもってきたのは、講談社で少年マガジンを担当していた編集者であった。少年マガジンと言えば芦原を一躍有名にした「空手バカ一代」(梶原一騎原作・つのだじろう作画/影丸譲也作画)が連載された少年誌であった。ちなみに芦原が出てくる部分の作画は、影丸譲也氏(のちに穣也に改名)が担当した。つまり最初芦原の技術書は、漫画雑誌の別冊という形での出版であったのだ。そのため最初出版された本は、紙の質も悪くすぐに黄色に変色してしまうものだった。これは、意図してそうされたものではなく本の扱いが、漫画週刊誌の別冊ということであったためそれより上質の紙を使うことが予算の問題もあり許されなかったのである。芦原の本は、少年マガジンの紙面で大体的に宣伝された。これは、昔からのファンを少年マガジンに呼び戻すほど大きな反響があった。芦原の本は、超ベストセラーとなった。そのため途中からは紙の質もより上質紙に変更された。

 このことを知った芦原は、どんな状況であっても努力を重ね、今までにない独創的なものを作ることの大切さを自分自ら弟子に証明してみせたのであった。芦原の書いた技術書は、それまで出版されたすべての武道書を抜きベストセラーとなった。そして、講談社からはすぐに第2弾のオファーが来ることになった。芦原の書いたこの最初の技術書には、英語版、オランダ語版のものが存在する。オランダ語版が出たのは、当時オランダには格闘王国といわれるくらい格闘技がさかんで、芦原の凄さを知る多くの人間から多くのオファーが出版社に寄せられ実現した話だと聞いている。現在でも芦原関連の本やDVDなどはオランダで人気がある。