Samurai Bushido Channel in Japan

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芦原空手「サバキ」と「大東流合気柔術」の関係

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芦原英幸のサバキ

サバキの技術(サバキと合気柔術)

芦原の技術には、合気柔術の研究も含まれている。今まで他の書籍でも書いてきたようにサバキは、合気道や合気柔術から生まれたものではない。また合気道や合気柔術を参考にしたものではない。しかし、芦原の書斎には、植芝盛平や塩田剛三の技術書、大東流合気柔術のビデオなどがあった。芦原は、八幡浜に道場をかまえて以後、あらゆる武道や格闘技のビデオを見ては研究していた。書籍もしかりであった。さらには、ライフルの打ち方に関する書籍などもあった。芦原は、銃器類についても研究していた。日本ではクレー射撃をやり、海外では二宮の道場があるデンバー道場に芦原専用のリボルバー(スミス&ウエッソンのマグナム)が保管されていた。二宮城光や松本英樹は、芦原の拳銃の腕前もかなり良かったと証言している。特にライフルの腕はよかった。芦原は、かつて「ライフルは、ゴルゴ13みたいに息を止めて撃つもんじゃないけん。コツは、息を吐くときに引き金をしぼるんよ」と言っていた。またモデルガンの将星の部分にコインを置き、引き金を絞る練習をしていたこともあった。かつて、道場生が空手家は、拳銃の撃ち方も知っているほうがいいのかどうかを尋ねたことがあった。その問いに芦原は、「どんなことでも知らないより、知っていたほうがいいんだよ」と答えていた。芦原のそういう考え方を反映して、弟子の中には海外に出て銃器類の扱いを学ぶ者もいた。また、芦原会館設立後、元自衛隊員でライフル射撃が得意であった松本英樹は、芦原に射撃のコツなどを芦原に聞かれアドバイスをしたりしていた。とにかく何でも関心を示し研究していた。

 

芦原が大東流合気柔術を研究した理由とは?

そんな芦原が、合気道や合気柔術を研究していた一番大きな理由は、芦原の師であった大山倍達(極真会館館長・当時)が、かつて大東流合気柔術師範の吉田幸太郎に合気柔術を学び免許皆伝を受けていたからに他ならない。記録によれば大山は、1956年(昭和31年)に吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術を学んでいる。また大山の拓大の先輩に塩田剛三がいることから養神館合気道にも関心を持って研究していたことがわかっている。ここで簡単に解説をしておくと、大東流合気柔術の中興の祖と言われているのが武田惣角という人物である。その武田の大東流合気柔術を学んだのが植芝盛平である。のちに植芝は、自流の合気道を創造する。その植芝の直弟子が塩田剛三である。その塩田剛三の一番弟子で警視庁の武道指導を行ったのが井上強一ということになる。この井上強一の最後の愛弟子が、英心会館館長石本誠である。石本は、元々芦原会館総本部で修業をし芦原から直接サバキを学んだ人物として知られている。

 

芦原カラテの巻き込み投げや裏投げとの関係

芦原がなぜ大東流合気柔術に関心を持ったのかという第1の理由は、自分の師であった大山の影響であった。さらに芦原が注目したのは、武田惣角の逸話にあった。その逸話とは、一人で多くの炭坑で働く荒くれ者を退治したという話であった。これは、記事として当時の新聞にも掲載されている。芦原は、1対多数で圧倒的な強さを示したということに関心があったのだろうと思われる。とにかく芦原が、一時期大東流合気柔術や合気道の技術を研究していたことは間違いない。ただ、言っておかなければならないのは、芦原が合気道あるいは大東流合気柔術から「サバキ」を生み出したのではないという事実である。まず最少に芦原が独自に作り上げた「サバキ」があり、その「サバキ」を見た人が、合気道や大東流合気柔術と似ていると言ったことから、芦原自身もそういった武術を研究したものと考えられる。

よく言われることで芦原のいう「入り身」と合気道などいう「入り身」は違うものであるし、芦原の「巻き込み投げ」や「裏投げ」などはもともと合気道などとは関係ない形で生まれた技術である。

 

掲載写真はSabaki Bushido Channelのオリジナルである。(無断転載禁止)